古河市議会 2007-09-19 09月19日-一般質問-05号
戦国時代の名将には、徳川家康には本多正信、武田信玄には山本勘助、豊臣秀吉には竹中半兵衛というように懐刀、知恵袋という側近がおりましたが、「いざ鎌倉」というときにそのような支えてくれる人材もいなかったのでしょうか。国のトップまでがこのように気骨というものがなくなってしまい、人間的に弱くなってしまったことと、取り巻きの人材の枯渇、私はこれこそ今の日本が抱える問題を象徴する出来事であると感じました。
戦国時代の名将には、徳川家康には本多正信、武田信玄には山本勘助、豊臣秀吉には竹中半兵衛というように懐刀、知恵袋という側近がおりましたが、「いざ鎌倉」というときにそのような支えてくれる人材もいなかったのでしょうか。国のトップまでがこのように気骨というものがなくなってしまい、人間的に弱くなってしまったことと、取り巻きの人材の枯渇、私はこれこそ今の日本が抱える問題を象徴する出来事であると感じました。
皆さん御存じのように,木下藤吉郎が竹中半兵衛のもとを度々訪れ,軍師として口説き落とす場面は,三国志で劉備が孔明に三顧の礼を尽くし,軍師に迎える故事にかなったものであります。竹中半兵衛は,常に秀吉の運営に当たり軍事面を補佐,草創期の秀吉を支えたとの記事がありました。
最後の施政運営の体制づくりでありますが、日本の歴史をひもといてみますると、太閤秀吉には竹中半兵衛という人が、そしてまた、徳川家康には南光坊天海という立派なお坊さん、そしてまた、ミカンで名を売りました紀伊国屋文左衛門、この人には林長五郎という仙台の浪人がいい相談相手としていたから、その下で仕事をしていたから立派な大将になり、あるいは豪商になっていったということが言われているわけであります。